心の中に潜む罪に気が付くとき

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こんにちは、石井です。

最近寝不足が続いています。夜になると寝付けず。遅くまで起きてしまい、翌日の仕事中に眠くなってしまいます。
生活習慣を見直して、体調を整えないといけませんね。

聖書を読むと、自分の罪深さを思い知らされる

何をしても罪なんじゃないか、これもあれも全部罪なのかと悩んだ時もありました。
しかし、その気づきこそ大事だったのかなと思います。

詩編119編130節

御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。
(詩編119編130節)

クリスチャンになった当初、先生や信徒と聖書の御言葉を分かち合うのですが、罪については自分の中で大きな問題でした。

人間は罪人だ、毎日の生活においても罪を犯しているという現実を突きつけられても、

そんなに悪いことしてるかな

という認識しかありませんでした。

しかし、聖書を勉強していくと、自分の罪深さを知りました。
聖書にはいろいろ書かれていますが、行いだけでなく、心の中で思うだけでも罪だとします。(そういえば共謀罪の国会審議でも人の内心まで及ぶのかずいぶん議論になっていたなあ)

聖書を勉強すればするほど、自分の罪がこんなにもあるのかと思い知らされます。

ローマの信徒への手紙7章7節から8節

7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
(ローマの信徒への手紙7章7節から8節)

上記のみことばで、パウロはこうも言っています。

律法によって、「むさぼるな」と言われなかったら、自分が貪欲に「むさぼりたい」という欲求を知らなかった。

「たべてはだめ」と言われれば、食べたくなる。
「見てはだめ」と言われれば、見たくなる。

こんな経験はだれにでもあります。
聖書の言葉によって、自分の内にあった欲望や妬みなどの罪に気が付かされるのです。

これによって、本当に罪深い人間なんだと思うようになりました。

イエス・キリストは罪人のために来られた

人間には、本当に貪欲な欲望や妬み、変なプライドなどがあり、普段の生活で気が付いていないだけで、そういう面が出ていることが多いです。

聖書を通して、自分の罪に気が付き、自分がどれほど罪深いのか、またその罪を行ってしまっているのか、気が付きました。

それはとても苦しいことですし、見たくないことでした。

祈りを捧げて、罪を告白し、罪を起こさないようにしてくださいと祈ってもなかなかなくなりません。

神様はこんな罪深い私のために、独り子であるイエス・キリストを世に送ってくださった

イエス・キリストは、私たちの罪を赦すために、十字架につけられて死んだのです。

こんな罪深いわたしを神様は救い、愛してくださいます。

現在、クリスチャンでない人や、教会から離れてしまっている人も、少しずつ神様や聖書について興味を持ってくれればうれしいです。

みんなの上に恵みと導きがありますように、アーメン。


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