こんにちは、堀本です。
今日一日も、全てを導いてくださった神様に感謝いたします^^
特に意味があってではないのですが、今日は何気なく開いたミカ書を黙想していました。
この書物では、サマリアとエルサレムが話しの舞台となります。サマリアというと、新約聖書で登場する「良きサマリア人のたとえ」を連想される方も多そうですね^^
(かくいう僕もそうでした)
サマリアという地は、元々は分裂王朝時代の北イスラエルの中心地にあった場所ですが、アッシリアにより北イスラエルが滅ぼされた際に、アッシリアの人たちがこの地に移住してくることとなります。
結果、北イスラエルに残ったイスラエル人と、移住してきた人たちとの間で混血の人たちが生まれることとなり、新約時代には、イスラエル人たちは異民族として扱っていたような記述がみられます。
今日はミカ書の1:6を読んでいて、ここにも神様の愛を見つけた気がしたので、分かち合ってみたいなと思って、久しぶりにこうして書いている次第です笑。
1:6の前半を見ると、
わたしはサマリアを野にある瓦礫の山とし、 ぶどうを植える畑とする。
とあります。1:5-9までの、一つの括弧で括られたこの箇所の中では、「ぶどうを植える畑とする」という箇所だけがどこか浮いているように感じました。
というのも、その他の箇所は、破壊、悲しみなど、悲壮な言葉が並んでいる中で、この言葉だけがそうではないように感じたためです。
以前読んだ時には、この箇所は、
「サマリアはアッシリアによって滅びがもたらされるが、 その後には必ず神様が回復を与えられる」
というメッセージが込められたもので、それ以上の意味はないのだろうと思っていました。
ですが、この「ぶどうを植える」というところは「イエス様が来られる」という意味も込められていたのかななんて思いました。
というのも、イエス様は最後に弟子たちと食事をしたとき、ぶどう酒を「私の血」という表現を持って弟子たちに渡されていますし、ルカ10:25-において、実際にイエス様がサマリアという地に立ち寄られたことが書かれています。(また、イエス様が最初になされた奇跡というのが、水をぶどう酒にかえるということだったのも、ふと頭をよぎりました^^)
まとめると、来られたイエス様の血潮による救いが、サマリアという地にも必ずなされる(今尚なされている)ということを、この箇所は言いたかったのかなと思ったわけです。
もっともっと突き詰めると、まことの救い・回復を与えられるのはイエス様ただお一人ということも、この箇所は言っているのかななんて^^
もちろん、これが正しいかなんて、神様しかわからないのですが、こんな風に聖書の言葉にじっくり向き合う中で、新しく神様のことを知っていくことができるのは、やっぱり黙想の恵まれるところだなって思います^^
イエス様はサマリアの人たちのことを迫害の対象とすることなく、愛する隣人であると明言しています。
僕も隣人に対して、イエス様のようにもっともっと愛を持って接していけるようになりたいなって思いました^^
今日一日も、全ての面でささえてくださった神様に心から感謝いたします^^
追記
ジャカルタに行った時に食べた、レインボーアイス、とても美味しかったです^^
名前:堀本悠介
年齢:30歳
都内のIT企業でエンジニアとして働いています。
2013年に洗礼を受けてクリスチャンとなりました。
好きな聖書の箇所:土の器(コリント信徒への手紙(II) 4章)